2009年03月20日

ゼウスの檻

小さい頃、21世紀には人類があたりまえのように宇宙旅行できるような時代になるものだと思っていたのだが、いざ21世紀になってみれば、宇宙開拓はおろか、20世紀からつづいているさまざまな問題すら解決できないまま、ずるずると引きずるようにして時間ばかりが無駄に流れていく、という気がしてならないのは、はたして私だけだろうか。

 もちろん、人類の科学技術が輝かしい未来を約束していると信じるほど無知ではない。また、インターネットの隆盛といった部分では、確実に既存の人間社会の構造は変化しつつあると言える。正直な話、携帯電話がある種の「携帯端末」として、ここまで普及していくことなど、以前であれば考えられないようなことでもある。だが、にもかかわらず人類が今もなお地球という惑星にとどまりつづけている、というのは、見方を変えれば、すぐそばに無限の空間が広がっているのを見ようとせず、狭くて小さな世界に必死にしがみついて汲々としているようで、どこかもどかしさを覚えてしまう。

 広大無辺の宇宙に対する飽くなきロマン、というのは、私のなかにたしかにあるひとつの憧れだ。だが同時に、それはあくまで自分の手に届かないものであるからこその幻想なのかもしれない。以前に読んだ平谷美樹の『エリ・エリ』のなかに、木星の近くにある宇宙ステーションに勤務していた人が、精神を病んで地球に戻らざるをえなくなったというエピソードがあるのだが、住み慣れた場所を離れ、未知の世界へと飛び出していく、それも宇宙空間という、人類にとってこのうえなく厳しい環境へと出ていくというのは、それだけ人間の精神に大きな負担をあたえるものだということでもある。

 地球上の生物が、苛酷な環境の変化に適応していくために、ときに自身の姿かたちを大きく変えていったように、人間もまた、宇宙空間に適応するためには、それまでの人間という枠をとりはらい、身体的にも精神的にもより柔軟に変化していくことを求められるのかもしれない――本書『ゼウスの檻』を読んだときに、まず思ったのはそうした事柄である。

 地球人はどこまで進んでも、地球流のやり方を残したままでいるからだ。地球で発生したこの身体を持ってゆく限り、我々はいつまでも、宇宙に適応するのではなく、宇宙環境のほうを地球型に変化させて居住せざるを得ない。――(中略)――この肉体が縛るんだよ。檻のように、人間の精神の発達をね

 本書のなかの世界では、人類の宇宙進出への意欲がめざましく、地球の軌道上や月面上に居住地区をもつ本格的な宇宙都市を建設し、火星やアステロイドベルトの開拓を経て、その最先端は木星に届くまでになっていた。人類が地球の外で生活することがごくあたり前となっている未来――そんななかで、物語の大きなキーとなる要素として「ラウンド」の存在がある。

 「ラウンド」――ラウンドトリップ・ジェンダー。人類が宇宙進出のさいに、人体におよぼす影響を調査するための被検体として生み出された、まったく新しい性をもつ人々の総称であり、生まれながらに男と女両方の機能を体に備えている両性種であるが、じつのところ彼らの存在が宇宙開発のため、というのはなかば口実にすぎない部分がある。より現実的な側面としては、21世紀ごろから現われ始めたセクシャル・マイノリティの問題、そしてそこからあらためて疑問視されるようになった性差の意識の変質が、結果としてラウンドを生み出す土壌となっている。

 未来の人類の世界を舞台とする本書において、男女の性差は単純に「男」「女」の二分法ではとらえられない、複雑な様相を呈するようになっている。人間の性を「身体の性」「心の性」「性的指向」の三要素にわけ、それらの組み合わせによってさまざまなパターンの性差が認められるようになっていた。生命操作の技術の発達、つまり遺伝子治療や人工臓器などの技術の飛躍的向上によって、人類の性転換が容易になったことも相まって、気軽に自身の性を変えることや、心と体の性不一致をとくに違和感なくとらえることのできるあらたな価値観が育ちつつあった。ラウンドというのは、そんな複雑になった人類の性差の、あくまでひとつの形態にすぎない、つまり、私たち読者があたりまえの認識としてもっている、男女の性差を基本とした「人間」と同じだという基本があり、それこそが本書を表現するにあたって重要な要素となっている。

 どれだけ時代が進んでも、古い価値観からなかなか抜け出せない人たちというのは常にいる。心も、体も、いずれも男か女のふたつにひとつしかない、という超保守派もいれば、そうした性差を超えた存在として、両方の性をひとつの体で共有したいという超進歩派もいる。物語は、そんなラウンドたちが暮らす場所を「特区」として受け入れている木星の宇宙ステーション「ジュピターT」が、過激なテロ組織「生命の器」の標的にされているという情報のもと、火星警察の特殊警備部門所属の城崎ら警備グループが、前任のグループと合流し、「ジュピターT」でテロリストたちを迎え撃つという作戦が遂行されることになるのだが、そこにあるのは、けっきょくのところ同じ「人類」であるにもかかわらず、ごく個人的な価値観の相違によって「ラウンド」「モノラル」と二分化し、それぞれ憎しみや、怖れの感情を相手に覚え、そして血を流さずにはいられない人々の姿であり、それは私たちが性差について「男」「女」と二分化するのとなんら変わりない。だからこそその争いの果てにあるものはこのうえない虚しさだけである。

 私たちは、モノラルの意志と希望によって生み出されましたが、生まれたと同時に保守派モノラルから異端視された。まるで危険な猛獣のようにね。ジュピターTはラウンドにとって、まさに“木星(ゼウス)の檻”なのです

 本書は宇宙ステーションでのテロリストとの戦い、という形をとってはいるが、その背景にはモノラルとラウンドの対立、マジョリティとマイノリティのあいだの問題が隠されている。そして本書においてもうひとつ興味深いのが「グレイ・ゾーン」の存在、つまりふたつの対極があるなかで、そのどちらかに一方的に偏るわけではなく、判断保留をしながら時と状況によって柔軟に対応していくというひとつの考えかたである。そして、本書においてじっさいに血を流しているのが、そうした「グレイ・ゾーン」に属する人たちであるというのがなんとも皮肉なことでもある。じっさい、テロリストたちも警備グループの人たちも、「ラウンド」とか「モノラル」とかいった判断基準について、思想的な思い入れはとくに持ってはいない。そしてラウンドのなかにも、その社会にどうしてもなじめない者や、ある種の奇形とされている者もいる。ひとつの対極する価値観の衝突を書きながら、そのなかにじつにさまざまな価値観、複雑な個人的考えをモザイク模様のように織り込んでいく――それこそが、本書の大きな読みどころである。

 肉体、教育、環境など、私たちを縛るものは数多い。そして広大な宇宙において、何が起こるのかはまさに未知数だ。はたして私たち人類は、どこまで高く、どこまで遠くへ自分たちを導いていけるのだろうか。そして私たちは、どこまで自分自身を自由に解放できるのだろうか。
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2009年03月18日

ガイアの季節

 たとえば、あなたが今こうして見ているインターネットブラウザ画面。その画面を映しているモニターも、インターネットにつなげるためのパソコンも、そしてデータを置いてあるサーバも、電気がなければただの箱でしかない。そしてその電気の約三割が、原子力発電でまかなわれているという。その安全性はともかく(もし本当に原子力発電が安全なら、東京のど真ん中に建てればいい、という意見もある)、夢の次世代エネルギーが見つからないかぎり、日本の電気は原子力にたよらざるを得ない、というのが実情らしい。
 だが、それはもちろん日本の実情であって、オーストラリアの先住民族アボリジニにとっては、日本の電気がどうなろうと知ったことではない。

 本書『ガイアの季節』の舞台となるオーストラリア、そしてその地下に眠る、莫大な量のウラン――オーストラリア政府が放出したウラン鉱山の権益を巡って、日本、ドイツ、イギリス、そしてオーストラリアの各電力会社は激しい火花を散らしていた。中央電力の燃料部に勤める門奈芳樹は、病気で倒れた中辺に代わって、将来の安定した電力供給と日本の国家戦略にかかわるこの一大プロジェクトを成功させるべく、オーストラリアへと向かう。
 しかし、現地で中辺を見舞った門奈は、彼がすでに死の淵に瀕していることを知る。「チッペンデイルへ行け」――ウラン交渉に関する日独英の三国合意文書を取り交わしたその足で、中辺が残した言葉どおりチッペンデイルへ向かう門奈。だが、そこはウラン鉱山の所有権を主張する先住民族アボリジニの町であり、門奈の運命を決定づける女性との出会いと、合意文書の紛失という事態が待ち構えていたのである……。

 本書では日本、ドイツ、イギリス、オーストラリアの各電力会社のほかに、アボリジニの団体や、反核環境団体、またある国の諜報機関などといったさまざまな組織が登場するが、この物語が好ましいのは、どこか特定の組織を一方的に悪者にしたり、また一方的に肩入れしたりすることなく、どの組織に対してもその表と裏を等しく書き出そうとしている点にあるだろう。巨大企業である日本の電力会社だからといって、そこで働く人がみんな悪い人間であるわけではないし、反核環境団体だからといって、そこに参加しているみんなが良い人であるわけでもない。また、マイノリティーのアボリジニにしても、みんながみんな民間伝承(ドリーミング)でのタブーだからウラン発掘に反対しているわけではなく、企業と同じようにウラン売買の利益を得ようと考えている者だっている。企業には企業の、環境団体には環境団体の、アボリジニにはアボリジニの思惑がそれぞれあって、それらが複雑に入り混じって物語は進行する。そんな思惑が飛び交うなか、日本の電力会社の人間である門奈と、アボリジニのマグー族の精神的支柱であるアケミは出会い、徐々に魅かれ合い、そして恋に落ちていく。

 かつて、マグー族のために力を尽くしたアケミの父、それゆえにマグー族の心の支えとならざるを得なかったアケミ――その役割の重荷から解放されたいと望んでいることを知った門奈は、彼女とマグー族を切り離し、日本に連れ帰るために立ちまわることを決意する。はたして、複雑な利害関係が交錯するウラン交渉で勝利するのはどこなのか? そして現代版『ロミオとジュリエット』とも言える、門奈とアケミの恋の行方は?

 環境問題、エネルギー問題、差別問題、そして民族間や国家間での問題――本書にはさまざまな問題が集約されており、それぞれ思う所もあるのだが、けっきょくのところ、著者はひとつの壮大な恋愛小説が書きたかったのではないか、と私は思うのだ。そう、恋愛小説――同じ日本人の両親から生まれながら、まったく違う民族として育てられた男と女の、美しくも哀しい恋物語……。
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2009年03月17日

いつも旅のなか

 私はどちらかというと海外の翻訳ものより、日本の作家の作品を好んで読む傾向がある。理由はいくつか思いつくが、なにより自分が生まれ育った、もっともなじみのある国の言葉で考えられ、そして書かれた作品であることへの安心感、というのがもっとも大きな要素だろうと勝手に考えている。だが、そんな日本の作家のなかにも、ときに日本以外の外国と強く結びついていて、それがその作家の作風にも大なり小なりの影響をおよぼしているケースがあったりする。たとえば、須賀敦子とイタリア、梨木香歩とイギリスといったつながりがそうであるが、とくにエッセイなどを読んだときが顕著で、日本のことよりも、むしろイタリアやイギリスでの出来事が、まるで自分の国の日常を語るかのような感じで書かれていたりするのだ。

 日本人であるにもかかわらず、その人のなかに日本以外の国の要素を強く感じとる、というのは、これまで一度として海外旅行に出かけたことのない私にとっては、なかなか奇妙で、そして面白い感覚である。こうした感覚はなにも作家にかぎらず、身のまわりの友人に関してもいえることであるが、不思議なことにどれだけ多くの海外旅行をしてきた方でも、かならずしも外国の印象をまとえるわけではなかったりする。そしてその違いは、おそらく生活基盤がしっかりと日本に根づいているか、そうでないかの違いによるところが大きいと私は見ている。海外の雰囲気を感じさせる日本人は、なんとなくではあるが、いつ日本を離れていっても不思議ではないような印象をもっているものなのだ。

 今回紹介する本書『いつも旅のなか』は、作家である角田光代の旅行記であるが、本書を読み終えて思ったのは、著者もまた日本以外の国々の雰囲気を強く感じさせる方のひとりである、ということである。だが、では著者はどんな国の雰囲気を身にまとっているのかと考えてみると、じつはそれがはっきりとしてこない。少なくとも日本ではない、ということだけはわかるのだが、では著者がもっとも好きだと断言しているタイかといえば、かならずしもそうとは言い切れないところがあるのだ。

 本書のことを旅行記、と書いたが、それはけっして観光旅行といった程度のものではない。観光旅行というのは、言ってみれば旅行者にとっての非日常であるのだが、モロッコにはじまってロシア、ギリシャ、オーストラリア、ベトナムやモンゴル、中国、アイルランドなど、それこそ無節操なまでにさまざまな国を旅している著者にとって、それは旅行というよりも、むしろ「旅」というひとつの日常なのだ。それゆえに、著者が描き出す旅先の国や町のなかで、著者は観光地グルメといったものよりも、まずはその場の人々の生活と結びつこうとしているのがよくわかる。

 その町に流れる時間軸に、すっと入りこめるときがある。どんな町でもだいたい、滞在三日か四日目でそういうときがやってくる。そこでくりかえしおこなわれている日常が、肌で理解でき、自分がそこにくみこまれているのだと理解する瞬間。

 旅行記を読んでいて面白いと感じるのは、たとえばガイドブックなどを読めばわかるようなことではなく、そこで書き手がどんな体験をし、どんなところに強烈な印象を受けたのかを追体験できるときである。そこにはもちろん、それまで知らなかったさまざまな風習や文化の違いを知ることの面白さもあるのだが、言ってみれば、その旅行記を書く人物のキャラクター性によるところがけっこう大きかったりする。だが、こと本書に関しては、たしかにあるはずの著者というキャラクター性がずいぶんと希薄なのである。これはけっして悪い意味で個性がない、ということではなく、むしろ著者の人間性が強く打ち出されている部分もたしかにあるのだが、それは決まって旅に出る前や後だったりするのがほとんどで、いったん著者が旅先の国や町のなかに入り込むと、その手で書かれる国や町の様子が、まるで著者の手を離れて独自の色合いを帯びていくような感じがするのである――まるで、著者がその国に何年も在住しているかのような、そんな無個性さ。

 著者は間違いなく旅行好きであるが、たいていひとりで旅行に行っているのに、いつまで経っても旅に慣れることがない。たいていの場合、全体の旅行期間だけを決めて、あとは向こうへ行ってほとんど行き当たりばったりの、気ままな旅をつづけるというパターンである。そして現地にいくと、たいてい誰かと親しくなり、その人にいろいろと案内してもらう――それはふだんの私たちが、少しでも旅行を楽しむために綿密な日程を立てて行動するそれとは対極に位置するものだ。そしてこのような旅行をつづけてきた著者だからこそ、行く先々の場所で容易に自身を溶け込ますことができるのだろう。

 思えば、私はリアルと遠く隔てられて育った。道に放置された動物の死骸を見たことはなく、口にする豚肉が血を流すことも知らず――(中略)――真綿でくるまれたような世界しか見てこなかったと、二十三歳の私は強く思ったのだった。

 著者が日本以外のどんな国の気配をおびているのか、という上述の疑問に答えるとすれば、それはおそらく「無国籍」という気配だ。著者は日本もふくめて、どの国にもまだしっかりと根づいてはいない。そしてよくよく考えてみれば、このような著者の居場所のさだまらないような印象は、以前に読んだ『まどろむ夜のUFO』のなかにもたしかに感じたものである。そう考えたとき、本書のタイトルである「いつも旅のなか」という表現は、まさに著者のことを言い表しているのだと実感する。

 無国籍であるということは、同時にどこへ行ってもそこに溶け込んで生活していくことができるということである。そして、著者自身は「経験豊富になるわけでもない」と書いているが、少なくともこの世界にはいろいろな国があり、さまざまな価値観をもつ人々が暮らしているということを、肌で感じることができる人でもある。本書を読んで感じることのできる無個性さは、逆をいえばどんな価値観であっても、最終的には静かに受け入れてしまう真のおおらかさだ。そんな人が世界をどんな目で見つめているのか、ぜひともたしかめてもらいたい。

posted by パイナップル at 17:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

白バラ四姉妹殺人事件

ひと昔前のことになるが、江崎グリコのロングセラー商品と言える菓子「ポッキー」のCMで、若い女性タレント四人を同時に起用して「ポッキー四姉妹物語」なるキャンペーンをおこなっていたのを覚えている。かなり大々的に展開されたキャンペーンで、私のほかにも記憶にあるという方は多いだろうと思うのだが、私がとくにそのキャンペーンのことを覚えているのは、お菓子のCMであるにもかかわらず、その背景に四姉妹という設定を置き、それぞれの姉妹の個性があり、そしてその四人によって何かが展開していきそうだ、というドラマのようなものを感じたからである。それは、何より物語性というものを愛する私にとって、後にマルハペットフーズが創立十周年を記念して製作したCM『民子』を目にするまでは、何か私の心をくすぐる要素をもっていたことはたしかなのだが、では具体的にどんな物語があったのか、ということをあらためて考えてみると、どうにもよく思い出すことができない。どころか、とくにアイドルというものに大した価値を置いていない私は、その四姉妹にそれぞれ誰が起用され、どんな設定をもつ姉妹だったのか、ということさえもあまり覚えていなかったりする。

 つまり、今の時点で私が覚えているのは、「四姉妹だったこと」「ドラマ性があったこと」ということだけであって、じつは四姉妹の誰かがべつの姉妹と入れ替わっていたとしても私にはわからないし、そもそも四姉妹という設定でなかったとしてもかまわなかったのでは、とさえ思っている自分がいる。「ポッキー四姉妹物語」は、たしかに物語性を感じさせるものはあったが、それはCMという映像ありきで存在しえるものであり、たとえばこれが小説といった文字媒体になったとき、はたしてどこまで四姉妹の個性を掘り下げていくことができるのか、という意味では、やや頼りないものでしかなかった、と言うことができる。

 さて、本書『白バラ四姉妹殺人事件』である。「四姉妹」と書かれているからには、当然のことながら四姉妹が作中に登場するのだろうと思ってしまうのだが、本書に登場するのは「婦人」「男」「女」「婚約者」といった、名前のない抽象的な登場人物のみであり、唯一彼らが読んでいる地方新聞に連日掲載されている「四姉妹事件」が、わずかにタイトルとのつながりを思わせるものである。長女の婚約者であったはずの男が、じつは一番若い四女とつき合っていることが表沙汰になり、激昂した母親が彼を鈍器で殴打、気を失って倒れた男を見た四女がそれにショックを受け、自殺を遂げた――それが「四姉妹事件」の顛末であると、本書の登場人物は語るのだが、それは登場人物たちにとっては、私たちが常日頃からニュースや新聞でまのあたりにする事件のひとつにすぎず、興味深くはあってもけっしてその当事者として事件そのものと絡むことのない、あくまで別世界の出来事としての位置づけでしかない。

 にもかかわらず、本書のタイトルがなぜ『白バラ四姉妹殺人事件』となっているのかと言えば、まず考えられるのが、登場人物たちの没個性という特徴である。本書を読み進めていくと、「婦人」というのは「男」と「女」の母親であり、「婚約者」とは「女」の婚約者であるらしいことがわかってくるのだが、ある人物を特定する固有名詞をあえて廃したうえで、そんな彼らの日常を追っていくうちに、同じくただの新聞記事、ひとつの記号でしかなかった「四姉妹事件」の顛末が、いつのまにか彼らの日常生活のなかに混じりあい、彼らが本当は何者なのか、そして「四姉妹事件」と彼らをへだてる境界線がどこにあるのかが、かぎりなく曖昧なものとなってしまっていることに、読者はふと気がつくことになる。

 物語に登場する人物の主体性がはっきりと確立されておらず、それゆえに彼らの主体が容易に入れ替わってしまったりする、読み手をなんとも落ち着かない気分にさせるこの手法は、そのデビュー作である『二匹』からつづく、著者独特の持ち味のひとつであるが、こと本書において特徴的なのは、こうした何かの主体を定めることのできない不安定さが、ことごとく女性の登場人物を中心にして生じている、という点である。

 本書のなかに登場する男性は、いずれも自分のやるべきことを自分で決定し、ある種の確信をもって行動に移しているところがある。「男」は一度会社に就職したが、そこをやめて音楽大学に入るための勉強をはじめているし、「婚約者」も「女」に結婚の申し込みをしたからこそ「婚約者」という立場を得ることになった。それに対して女性は、常に受身の立場にその身を置いている。そういう意味で、彼女たちは何者でもないと同時に、何者にもなりえる立場にあると言うことはできるが、はたして彼女たちはそれほど自由な存在であるのだろうか。

「あなたはすごく淫らだ」とか「あなたとは昔どこかで会ったことがある気がする」とか。私はそれを否定したことがない。――(中略)――どんな風に思われてもよかった。自分はとてもありふれていて、どんな風でもないと思っていたから、誰かが私のことをこうだと決めたら、そうなんだと思った。自分で自分のことを決めることがすっかりいやになっていた。

 誰かの妻としての自分、誰かの母親としての自分、誰かの娘としての自分――むろん、女性に限らず人間はかならず何かしらに属するものであり、そこでは一個人としての意思などそれほど重要視されないものであるが、男性と女性で、どちらがより「何かに従属している」と感じさせられるかといえば、それはやはり女性ということになるだろう。そのもっとも典型的な例は、婚姻届を提出するさいに、ほとんどの女性が男性の姓に変更する、という事実で、それはある意味でそれまでのアイデンティティを喪失することでもある。主体性――自分という個の移ろいやすさという点で、男性よりも女性のほうにその比重を置いている本書が、もしそうした問題について意識的であるとすれば、本書はまさにその冒頭から、徹底してその曖昧さ、不確定さを前面に押し出すことで、逆にそのことを強調することに成功したと言うことができる。

「ポッキー四姉妹物語」の姉妹たちに、確固とした主体を感じ取ることができなかったのは、あるいは彼女たちとつながるはずの男性――父親の存在がはじめからなかったか、あるいは希薄だったせいだろうか。いずれにせよ、本書に登場する家族も、彼らが興味を寄せる地方新聞の「四姉妹事件」の姉妹たちも、父親が不在で「喪に服している」という意味では似たような環境にあった。私たちがあたりまえのように感じている自他の境界線――自分を規定するあらゆる境界線が、ことごとく曖昧になっていく奇妙な世界での物語が、どんな形で収束していくことになるのか、非常に興味深いものがある
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2009年03月14日

記憶の果て

かの三島由紀夫は『仮面の告白』という自伝的小説のなかで、自分は生まれたときの記憶をはっきりと覚えている、といったことを語っているが、脳の神経回路が完成していない、生まれたばかりの赤ん坊というのは、当然脳の記憶領域についてもまだまだ未熟な生き物であって、そんな頃の記憶をヒトとして意識できるはずもない、というのが生物学的見地だと言われている。少なくとも、私は生まれたばかりの頃について、いっさいを覚えていない。それは、たとえば私が胎児だった頃の記憶、さらにはそれ以前のものだった頃のことを覚えていないのと、基本的には同じことであり、脳のニューロンが複雑な神経回路を形成していくことが、ヒトとしての自意識を生じさせ、記憶をつかさどっていくという論のひとつの裏づけにもなっている。

 だが、そうした論が科学的根拠のあるものだとして、だから何なのだ、という見方もある。人間はどうあがいても自身の主観から逃れることはできないし、私たちが見たり聞いたりしているものは、しょせんは私たちの脳が外部からの刺激をもとに再構成されたものでしかない。それは、百人いれば百通りの真実がある、ということを意味する。もし三島由紀夫が、生まれたばかりの頃の記憶をもっていたというのであれば、それは彼にとっての真実であるし、三島由紀夫ではない私たちにその真偽を確かめるすべはない。私たちにできることといえば、せいぜい言葉によるコミュニケーションを駆使してお互いの共通認識を深めていくか、あるいはどこかで妥協点を見出すことくらいのものである。

「確認は……出来ないと思う。しかし感じることは出来る。例えば私には君に意識が宿っているのかどうかは分からない。でも私はチューリング・テストによって君に意識が宿っていると感じている。だから君には意識があると、そういうことでいいんじゃないかな」

「親父が死んだ。自殺だった」という文章からはじまる本書『記憶の果て』は、その自殺した男の息子である安藤直樹を一人称の語り手として物語が展開していく。父親の浩は人間の脳にかんする研究者であったが、自殺する前夜もこれまでとまったく変わったところはなかった。残された遺書もあまりに抽象的で、なぜ自殺したのかという疑問に答えてくれるわけではない。自殺の原因についてまったく思い当たらないという直樹や母親の困惑をよそに、父親の通夜や葬式は滞りなく進んでいく。

 当初、直樹の思考は「父親はなぜ死んだのか」という点に絞られている。だが、その疑問は物語の比較的初期の段階で、早々に棚上げされてしまう。なぜなら自殺というのは、犯人と被害者が同一人物であるということであり、被害者とともに犯人も死んでしまった以上、「なぜ死んだのか」という疑問は永遠に闇のなかであることに直樹は気づいてしまうからだ。その代わり、彼の興味は父の書斎に置かれていたパソコンに向けられる。より正確に言えば、そのパソコンのなかにいる「裕子」という擬似人格への興味である。モニターを通した言葉のやりとりで、まるでそこにひとりの人格がいるかのように対話が成り立っていく「裕子」は、直樹の父が自殺することを本人から聞かされて知っていた。

 はたして彼女は何者なのか。ただのプログラムにすぎないのか、それとも何らかの意識をもった存在なのか。だとすれば、それは父親の研究の成果ということなのだろうか。同じ高校の友人ふたりを巻きこんで、このコンピュータのなかの存在が何なのかという謎を追究していく形で物語が進んでいく本書であるが、本書で注目すべきなのは、ほかならぬ直樹自身が、「裕子」の正体についてはっきりさせること――彼女がただのプログラムでしかないのか、あるいは人間と同じように意識をもっているのか、白黒つけることに積極的ではない、という点だ。というよりも、友人の金田忠志の言葉を借りるなら「裕子のことが好き」になっている直樹は、彼女がちゃんとした人格をもつ者であることを信じたいと思っている。そういう意味で、彼はミステリーでいうところの探偵ではない。その役目を担っているのは、むしろ金田のほうだと言える。

 本書にはミステリーの定番に対するアンチテーゼとしての要素がある。ミステリーのはじまりにおいて殺人事件があるように、本書でも直樹の父親が自殺する。だが、そのあとに起こるのは死の真相を求めることではなく、通夜や葬式といった一連のごたごたであり、葬式にやってきた浅倉幸恵の姿を見て、過去の苦い思い出にふけったりすることだったりする。そして、「裕子」の正体を探るさいに出てくる人間の脳の話や人工知能にかんする知識は、人間の自由意思や実在といった、私たちがふだん確かなものだと信じて疑っていない事柄に揺さぶりをかけ、真実というものの曖昧さを露呈させる。ミステリーが隠されたただひとつの真実を明らかにするという過程を描くものであるとすれば、本書の流れはことごとくその逆を行くことになる。

 萩原は言った。脳の数だけ世界はあると。
 人が一人死ぬということは、世界が一つ終わるということなんだ。

 直樹は現在、高校を卒業したばかりであるが、まだ大学生になっていない状態であり、いわば何の肩書きもない「安藤直樹」という唯一の存在である。父親の死、そして「裕子」の謎を追っていた彼の視点は、思いがけずあきらかにされるいくつかの秘密を経て、自分の内側へと向けられていく。上述したように、自殺した父親が何を考え、なぜ死んだのかというのは、死んだ本人にしかわからない。同じように、父親の書斎に置いてあったパソコンと、そこにいる「裕子」のことについても、できるのはもっともな憶測を並べていくことだけであり、それは言ってみれば、真相の周辺をぐるぐる回っているような状態だ。金田はたしかに探偵役としては適任ではあるが、直樹や飯島哲雄にとって彼の理路整然とした言葉の羅列は、「屁理屈」の域を出ない。彼にも真実は何なのか、わかってはいないのだ。だからこそ、自身の内側へと深く深く潜りこんでいく直樹のベクトルに大きな意味が現われてくる。

 脳の数だけ世界があり、真実はそれぞれの思いのなかこそある、というのは、ミステリーからすれば暴論以外の何ものでもないのだが、このけっして短くはない物語を読み進めていくと、それ以外の結論はない、という方向に読者はたくみに誘導されていくことになる。そのためにこそ本書が書かれたというのであれば、それはたしかにひとつの成果だと言わなければなるまい。
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2009年03月13日

骨太の子育て

「自分を好きになれない者が、他人を好きになれるはずがない」――男女の恋愛をテーマにしたテレビドラマなどで、この手のフレーズが使われはじめたのは、いったいいつ頃からだろうか。少なくともずっと昔、といっても私の年齢だとせいぜい80年代くらいまでしか遡れないのだが、まだバブル経済が健在なりし頃の恋愛ドラマでは、人が人を好きになるのに小難しい理由など必要なかったように思う。いや、恋愛というのは今も昔も、えてして理屈では説明のつかない心の感情によるものであるのだが、以前の恋愛ドラマにはもっと気軽で、誰もがあたり前のように手に入れることのできるような、単純で明るい雰囲気に溢れていた。たとえば「翔んだカップル」のようなラブコメ路線の隆盛だったのは、ちょうど80年代くらいまでだったように記憶している。

 今の日本の社会は、さまざまな問題を抱えすぎてすっかり疲弊してしまっている。それまで社会から与えられてきた、正しいと信じることのできた価値観は失われ、人々は共通のモチベーションを奪われて今もなお混乱状態にある、と言ってもいい。「自分を好きになれない者が、他人を好きになれるはずがない」というフレーズの裏には、「自分を好きになれるだけの要素が何もない」という事実が隠されている。そしてそのフレーズは、次のように言いかえることもできるだろう。「自分を大切にできない者が、他人を大切にできるはずがない」、と。

 自分の中に何もない大人が自分を好きになれるはずもなく、またそんな自分を大切にしたいと思うはずもない。そして、そんな大人たちが親になり、子どもを育てていったひとつの結果として、不登校や引きこもりが社会現象と化すほど発達してしまった。本書『骨太の子育て』の著者である上田早苗は東京武蔵野、吉祥寺にある「フリースクール上田学園」を設立した方だが、彼女もまた、今の社会の抱えてしまったさまざまな問題が、その社会を構成する大人たちひとりひとりの問題であることを見抜いているひとりである。本書のタイトルにある「骨太」とは、誰かに依存したりせず。まずば自分に自信を持ち、自分の足でしっかりと立って、自分の意志で世の中を図太く歩いていく、という意味。だからこそ著者は、まずはじめに「親の自立」ということを訴えるのだ。

 先日NHKで『学校に行かれない先生達』というテーマの番組を放送していた。私はこの手の番組はなるべく見ないことにしている。なぜかというと、先生方があまりに一生懸命なことが分かり、せつなくなるからだ。その時もちょっと見て、なんとも悲しい気持ちになってしまった。親も先生も一生懸命子供のためという大義名分のもと、子供に大迷惑をかけているように思えるからだ。

 教育とはいったい何なのだろうか、ということを、あらためて考えさせられる文章だと思う。文部科学省がうちたてている「ゆとり教育」あるいは「個性をのばす教育」という名のもとに、授業時間を減らしていった結果、子どもたちを教える立場にあるはずの先生達のゆとりがなくなってしまったり、また不登校になった子どもをフリースクールに通わせた結果、簡単な算数の計算や辞書の引き方といった「基礎学力」すら身につかないまま大きくなってしまったり、といった弊害があちこちで出ているそうであるが、それもけっきょくのところ、「社会のため」「子どもたちのため」という大義名分のなかに、大人たちが逃げ込んでしまっているからなのだろう。何から? 自分と向き合う、ということから。

 親が自立するということ――それは、社会や家庭における肩書きを一度すべて取り払ったあとに残っている、まぎれもない自分自身と真正面から向き合う、ということだ。そして、これまで社会から与えられてきた「良い大学に入る」「良い会社に入る」「経済的に豊かになる」といった共通のモチベーションにもたれかかり、自分との対話を怠ってきた人間であればあるほど、裸になったときの自分のちっぽけさ、みずほらしさに直面しなければならなくなる。それはけっして楽な作業ではない。だが、そうした作業を経ないまま、まるでスローガンを置き換えるかのように「社会のため」「子どもたちのため」と叫んでみたところで、事態は好転するどころか、ますます悪くなる一方だろう。そして事実そうなりつつある。

 とくに、計算や辞書の引き方を知らない子どもが増えている、という本書の指摘には恐ろしいものを感じた。私はいわゆる「勉強ができる」子どもだった。「勉強ができる」ということと、「頭がいい」ということとが必ずしもイコールで結びつくわけでないことは周知の事実であるが、それでも義務教育における「勉強」を経なければ、おそらくこうして文章を書くことさえできなかったに違いない、と今では思っている。

 簡単に言うなら、「自由に学ぶ」という名目のもとに、「好きなことだけを学ぶ」という選択をした時点で、一生算数や計算が苦手になったり、辞書の引き方を知らない不便な生活を強いられるかもしれない。自由に学ぶことを選びとる子供達は、一見、利益を得ているように見えるが、実は将来に対し可能性の幅を狭め、決定的な損失をしてしまうのではないだろうか。

 本書の巻末には、小説家村上龍との対談が載っているが、そこで彼は「もっとみんな自分勝手になればいいと思う」と述べている。少なくとも、今の大人たちが自分のことを考えたときに、何もない自分に直面するのが怖いという理由で、社会や子どもたちのことに手を出し、さらに傷口を広げてしまうことを考えたとき、村上龍のこの指摘は正しいと言えるだろう。そしてそれは、「親の自立」ということを訴える著者の主張にもつながるところがあるだろう。

「自分探し」ということがしきりに叫ばれ、イチローがCMで「変わらなきゃ」と言いはじめるまでもなく、本当は、誰もが薄々感づいているのだ。「今の自分のままではダメだ」ということに。だが、それがいかに困難な道のりであるかを指摘するために、最後に著者にあてられた手紙の一部を引用することで締めたいと思う。

 もう子供に本当のことを言ったほうがいいのかもしれない、という気までしています。「親は間違って自分というものを持たないまま親になり、子であるあなた達を苦しめるかもしれないけど、あなた達は、その間違った親に負けてはいけない」のだと。「その親に打ち勝って、自分を作り、自分を探し、今度は自分が自分を持った親になりなさい」と激励するしかないような、そんな気がしてきました。

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2009年03月12日

告白

たとえば、「血液型による性格診断」について考えてみる。「A型の人は几帳面」「O型の人はおおらか」といった、血液型と性格との因果関係を見出そうとするもので、誰もが一度はその手の話を聞いたり、あるいは自分も一時期はハマっていた(好きな人との相性などで)という方もいらっしゃるかもしれない。言うまでもなく、血液型によってその人の性格や相性がある程度決まってしまうというのは暴論であるし、そこにどれだけの根拠があるのかもはっきりとしてはいない。にもかかわらず、たとえば文芸社から刊行された『B型自分の説明書』という本が爆発的な売上を示したことを考えると、私たちはある意味で「虚構」であるはずの「血液型」――本来は血液の分類法のひとつであり、医学の分野に属していたものに対して、性格や相性といった異なる領域のものを混ぜ合わせ、それをひとつのカテゴリーとしてくくってしまった、という意味での「虚構」――というものに、想像以上に依存していると言えるのかもしれない。

 ある人のある特定の言動に対して、「あの人はA型だから」という結論をもってきてしまうのは、その人のなかで「血液型による性格診断」がひとつの因果関係として成立してしまっていることを意味する。だがその因果関係は絶対の真理ではなく、あくまで社会的なもの、人間の営みによって作り上げられたものにすぎない。じつはこうした「虚構」は、私たちの生きる社会のなかにはいたるところに存在する。たとえば「性」について。もともとは男女の身体的な区分にすぎなかったにもかかわらず、いつしか男女の性差が個人の性格やアイデンティティの要として認識されてしまっているところがある。女のなかにも荒々しい部分があるし、男のなかにも奥ゆかしい部分があるのに、その人の「性差」を基準のひとつとして、その人の個性を判断してしまうのは、そうした「性」というカテゴリーの「虚構」が、私たちの社会のなかに深く浸透しているからに他ならない。

 では、犯罪についてはどうなのだろう。犯罪を犯罪と見なすには、個人が自由意思をもっているということが前提となる。人は良いことをすることもできるし、悪いことをすることもできる。それを選択するかどうかは個人の自由である以上、その選択の結果に責任が生じるのは当然の帰結だという考え――だが、人が本来自由であるという考えは、いったいどこから生じたものであるのかを考えると、そこにもやはり社会制度や人間の習慣といったものが大きく関係していることに気づく。犯罪が社会秩序を乱す行為である以上、秩序を回復するためには犯罪そのものを取り除かなければならない。だが、すでに犯罪は起こってしまったことであり、なかったことにすることはできない。ゆえに、犯罪を起こした張本人を「責任者」として選定し、彼を犯罪に代わって罰するという手続きが必要となる。そして、この社会的機能が意味するのは、人間が自由であるというのは、絶対の真理ではない、ということだ。なぜなら人間は自由だから責任が生じるのではなく、ある行為に対する「責任者」を社会が必要としているがゆえに、人間を自由であると規定するしかなかった、ということになるからである。

 非常に前置きが長くなってしまったが、今回紹介する本書『告白』は、犯罪によって乱された秩序と、その秩序を回復するための一種の「儀式」――責任者を罰するという社会的な装置について、もう少し正確にいえば、その限界について、あらためて考えさせられる作品だということである。全部で六つの章によって構成されている本書において、章によってそれぞれ語り手は異なるものの、いずれの章においても徹底してある登場人物の主観――手記や日記、あるいは話し言葉といった主観のみをもちいて物語を構築しているのは、ある意味で社会的なものの見方というものを、はじめから排除しようという意図があったからに他ならない。

 たとえば、第一章の「聖職者」という章では、一学期の終業式に教員を退職することになったある女教師が、そのことを受け持ちのクラスの生徒たちに語る、という形で物語が進んでいく。自分が教師になった理由、「世直しやんちゃ先生」と呼ばれ、メディアでも取り上げられている桜宮正義先生のこと、先生と生徒との信頼関係について、シングルマザーやエイズ感染者に対する不当な差別意識について――彼女の話すことは、こんなふうに書いてしまうとまとまりのないもののように思えてくるが、それも話がこの学校で起きた彼女の娘である愛美の死について、そしてそれが事故死ではなく殺人、それも、このクラスの生徒による殺人であるということを告白する段階になって、一気に異様な雰囲気が満ちてくることになる。

 本書の中心にあるのが、「聖職者」における語り手である森口悠子の娘、愛美の死であることは間違いない。そしてその手口――犯人が誰で、どのようにして殺されたのか、という点についても、彼女はすでに辿り着いている。重要なのは、犯人が十三歳の中学生であるということ、警察発表では、愛美の死は事故死として判断されたということ、そして仮に、犯人を法の裁きにゆだねようとしても、未成年であるがゆえに刑事罰を受けるようなことはなく、また犯人も自分のしたことを反省したり、ましてや命の尊さについて自覚するようなことがない、という点である。

 つまり本書は、そうした少年犯罪の加害者に対して、その犯罪の被害者がいかにしてその復讐をはたすのか――森口悠子の言葉を借りるなら、「自分の犯した罪の重さを知り、愛美に対し心から申し訳なかったと反省し謝罪」させられるか、という一点に尽きる。そしてそれは、このうえなく残酷なやり方ではたされることになる。

 前にも書いたとおり、本書は常にある登場人物の主観に特化した形で物語が進んでいく。ゆえに、森口悠子が主観の「聖職者」を読むかぎりにおいて、私たちは必然的に彼女に深く感情移入してしまう。だが、それ以降の章において、彼女が犯人だと弾劾したふたりの少年の主観や、その母親、同じクラスの生徒といった主観で物語が書かれ、同じ愛美の事件を別の視点でとらえることで、それぞれの登場人物の感情にも触れることになる。ミステリーなどでは、こうした多角的な視点が出てくることで、当初磐石だった真相に別の側面やおもわぬ見落としが指摘されたりすることがあるのだが、こと本書において強調されるのは、それぞれの登場人物がもっている我の強さ、自分の考えを正当化するために事実を歪め、一方的に相手に責任を押しつけていく人間のある種の醜さである。そしてその醜さ、さらにはそこから生じてくる狂気めいた世界は、犯罪被害者である森口悠子自身にもあてはまる。だからこそ、登場人物の主観に特化した本書の語りは、淡々としていればいれほどその底にある狂気が仄見えてくることになり、私たちはそれに戦慄せずにはいられなくなる。

「聖職者」「殉教者」「慈愛者」「伝道者」――それぞれの章につけられたタイトルは、その言葉自体をとるならばきわめて高潔なイメージをともなうものである。だが、その主体となった人物にその言葉をあてはめたとたん、その言葉はこのうえない皮肉として響いてくることになる。そしてその皮肉は、自由であるがゆえの責任という「虚構」を押しつけようとする私たちの社会制度への皮肉にもつながっていく。悪い行為が非難されるのではなく、社会が非難する行為が「悪」と呼ばれるのであれば、その「悪」を規定するのが社会であろうと個人であろうと、何の違いがあるというのか。犯罪被害者は容易に加害者へと変わり、加害者は逆に被害者と化す、そこにあるのは、無限につづいていく憎しみの連鎖でしかなく、だからこそ本書は私たちに、悪とは何か、罪とは何か、そして罰とは何か、ということを考えさせずにはいられない。

 人は社会のなかでしか生きられない。だがそれ以上に、私たちはそれぞれの主観によって構成されている独自の世界のなかで生きている。そこは、ともすると自分に都合のいい事柄によって成り立っている世界でもある。起こってしまった犯罪に対して、何らかの形で責任を負わせ、それを罰するという儀式がどうしても必要になったとき、社会の代わりに個人の主観が優先することは、はたしてどういうことなのか。ともあれ、ぜひとも一度読んでほしい本だ。そしてこの作品のなかに書かれていることについて自分がどのように思うのかを、おおいに考えてもらいたい。

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2009年03月11日

くじらの降る森

こんななぞなぞがあるのを知っているだろうか。

「自分のものなのに他人が使うものは何?」

 答えは「名前」――そう、私たちはこの世に生を受けて、まず誰かに名前をつけてもらう。そしてそのことによって、自分が他の誰でもない、自分だけの個人名を持つ、たったひとつのユニークな存在であることを認識する。およそ、この世に名前のないものなど存在しない――逆に言えば、この世のありとあらゆる事物は名づけられることによって明確に区分されており、そのことによって世界の秩序は保たれているのだ。
 だが、いみじくも上述のなぞなぞが示しているように、私たちは、自分がこの世で唯一の存在であると認識するのに、どれだけ名前の力を借りているだろうか。たとえ誰も自分の名前を呼ばなくても、自分が自分であることは自分が何よりよく知っているはずである。自分のものであるにもかかわらず、他人ばかりが使っている名前――あるいは、私たちは名づけられることによってユニークになるのではなく、名前という枠のなかに、その無限の可能性を封じ込められてしまっているのではないだろうか。

 本書『くじらの降る森』には、名前のないひとりの青年が登場する。
 休暇を利用して、半年前に他界した父の別荘にやってきた三田島新太郎は、人手のはいらないまますっかりさびれてしまったその別荘を取り囲む白樺の森の中で、偶然その青年と出会うことになる。他の人にはない、独特の雰囲気を身にまとっているその青年のなかに、なぜか今は亡き父の面影を見出した新太郎は、その青年と、そして青年の生みの親である小池恵子――彼女が一年前に投函した、新太郎の父に宛てた封書を、彼は野ざらしにされていた郵便受けの中から発見する――と会い、話をするうちに、徐々に彼ら親子を取り囲む複雑な事情と、その青年の出生の謎、そして何より、なぜ出生届を出さず、また名前も与えないまま、十八年という長い時間を過ごしてしまったのか、について知ることになる。

 他の子供たちと同様に、当然の義務であり権利でもあるはずの教育を受けていないということ、同年代の友人がひとりもいないということ、そして、名前がない、という事実――だが青年は、それらの事実を苦にするどころか、むしろ誇りにさえ思っているようだ。「誰も、おれみたいな生き方をしていない」と彼はうそぶく。今の学校教育が、けっきょくのところ個性を抑えつけられた、金太郎飴的人間の再生産工場となっているという、けっして好ましくない現実を考えたとき、確かに彼は、今の社会が否応なく押しつけてくるあらゆる束縛から自由であると言うことができる。なにしろ彼は、戸籍上では存在しないことになっているのだから。

 人は、他人がいなければ自分という一個の人格を相対的にとらえることができないものだ。周囲に自分以外の人がいること――そのことによって、はじめて人は、自分自身というものを意識する。自分はあいつより頭が良い、自分はあの子より運動神経がよくない、自分はあいつほど背が高くない……etc、etc。そして、まわりにいる人の数が多ければ多いほど、自分の中にある、他人よりも際立っているところがどうしても突出してしまう。大勢の人たちとの集団生活の場は、自分という個性を見つめる場であると同時に、ともすれば自分を含めた人間たちをランクづけし、結果として突出した個性を潰してしまう場として機能してしまうこともある。

 その青年にとって、自分という個性はどのように意識されてきたのだろうか。彼はけっして世間にうといわけではない。むしろ、他人との関わりあいに消費される時間のすべてを本やテレビによる学習に費やすことができたぶん、他の人たちよりも多くの知識を蓄えているとさえ言うことができる。その青年をとりまく、閉じられた世界――ただひとつだけ言えるのは、その小さな、しかし彼にとってはすべてだったその世界は、他人によってランクづけされることから免れた、純粋に彼だけの世界を築くことに大きく貢献した、ということである。

 青年は、くじらの絵を描く。色とりどりの、大きさも統一されていない、そして一匹として同じことをしていない右向きのくじらたち――芸術というものが、自分の個性を表現するための究極の形であるとするなら、彼の描く、けっして本物とはなりえないくじらの絵は、彼が彼である唯一の存在意義のようなものである。そして、彼の世界そのものである無数のくじらたちは、白樺の森によって閉じられた世界を飛び出して、東京という無尽蔵の混沌をも凌駕していく。

「傷だけを見ていたら、だめなんだ。おれ、やっとそういうことに気がついたんだ。ずっと、ネガティブにものを考えていた気がする。とくに東京へ出てからは、自分がしていることを破壊したり汚しているだけの作業だと思ってた。でもそれは、つぎの誕生につながらなくちゃ、意味がない。……」

 名前のないことが、けっして幸福であったとは思わない。だが、たとえ戸籍上では存在していないことになっていたとしても、その青年がはぐくんできた、けっして誰にも到達することのできないひとつの小宇宙は、きっと読者の心に何かしらの想いを刻み込んでゆくに違いない。


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2009年03月10日

江戸の暗黒街

誰かが誰かを亡き者にしようと画策する。ある者はおのれの権力拡大のために、ある者は敵討ちのために、ある者は男女関係のもつれのはてに、そしてある者は保身のために――どのような理由があろうと、人が人を殺めるという行為はけっして許されるものではないのだが、それでもなお誰かが誰かに強い殺意をいだくことを止められないのは、人が多かれ少なかれプライドをもつ生き物であるからに他ならない。自身の強いプライドは、ときにその人の生きる力となり、大きなことを成し遂げるための原動力にもなりえるものであるが、それゆえに一度間違った方向にその力が注ぎ込まれれば、周囲にいる人や自分自身さえも破滅させかねないものでもある。そんなふうに考えると、人間というのはつくづく危うい生に縛られて生きているのだと思わずにはいられない。

 金さえ積めば、個人の事情を詮索することなく、その対象を暗殺してのける殺し屋という稼業は当然のことながら違法なものであるが、彼らはある意味、人と人とのプライド、それも、醜く歪んだ黒いプライドのぶつかりあう、その最前線にいると言っていいだろう。それゆえに、殺し屋が登場する物語には深い人間ドラマが集約されるのだが、本書『江戸の暗黒街』は、まさにそのタイトルにもあるように、殺し屋たちがひそかに暗躍する江戸の裏側、闇の部分を描いた短編集だと言うことができる。

 たとえば『おみよは見た』では、いきなり殺し屋である青掘の小平次が、とある金持ちの妾である女の殺害をやってのけるシーンからはじまる。彼は言ってみれば金で人殺しを引きうけるプロであり、彼のような殺し屋たちをかこい、殺しの仕事を斡旋する裏の世界がある、という設定になっている。江戸に何千人といる香具師――彼らは盛り場の物売りや見世物といった稼業を生業とする者たちである。そしてその元締として君臨する者たちは、香具師の元締としての表の顔とはべつに、金になるようなことならどんなことにでも手を染めるという裏の顔をもち、それゆえに小平次のような人間が登場することになるのだが、こうした裏の世界の重鎮から殺しの依頼を受ける、というパターンが本書の作品のなかには多い。『女毒』では、浅草一帯を縄張りにしている香具師の元締の娘との婚約を反故にして失踪した男に対して、気位の高いその娘が男の暗殺を依頼するという形で殺し屋が登場するし、『殺(ころし)』では娼家を経営している松蔵という男の暗殺がある殺し屋に持ち込まれる。『縄張り』では、それぞれの香具師の元締たちが、自身の縄張り争いのために殺し屋を差し向けるという話だ。

 暗殺という物語の展開そのものが殺伐としたものであることは否定しないが、これらの物語のなかで扱われている「暗殺」という要素は、それが成功するかどうかといった、物語の中心となるものではなく、たんに物語を展開させるためのシチュエーションにすぎない。むしろ重要なのは、人が人を殺めるというシチュエーションが、思いもかけず登場人物たちの人生を翻弄していく様をどのように描いていくか、という点にこそある。最初に紹介した『おみよは見た』では、小平次は妾暗殺には成功するものの、その現場を妾の奉公女であるおみよに目撃されてしまい、それ以来彼は早急におみよの口封じをしなければならなくなるのだが、じつはおみよのほうでは、その殺し屋のことを、えげつない女主人から解放してくれた男として感謝しているところがあり、誰にも真実を告げることはしまいと決意していた。

 殺し屋と、それを目撃した小女――それぞれに人には言えない思惑があり、それゆえにお互いの思いがどうしようもなくすれ違っていく、という物語の展開によって読者をその世界につなぎとめるのが上手いのが本書の特長のひとつである。それゆえに、短編のなかには上述のようなプロの殺し屋が出てこないものもいくつかある。たとえば『誰も知らない』では、親の敵を見つけたものの、自分の腕では返り討ちにあると思い込んでいるある下級武士が、たまたま目にした浪人の腕を見込んで、自分の代わりにその敵を殺してほしいと頼みこむという話であるし、『白痴』に登場する寅松は、女を凌辱しようとした男の頭を石で殴りつけて殺してしまい、そこから日陰者としての人生を歩むことになる。『男の毒』のおきよは、自分をかこって愛欲に溺れさせてしまうやくざ者から逃れなければ、という一心でその男の首を絞めて殺してしまう。いずれの短編も、当人の意思とは裏腹な方向に物語が進んでいくことになるのだが、そこには人殺しというひとつのターニングポイントがあり、それによって当人の運命が大きく変化をとげていく、というパターンはいずれも共通である。

 親の敵討ち、と聞けば、私たちは無意識のうちに敵討ちをするほうに肩入れしてしまうものであるし、敵は悪い奴だという認識をもってしまいがちであるが、武士の世界における敵討ちというものが、それを果たさないかぎり跡目を継ぐことができない、という事情があるとすれば、考え方は多少変わってくる。本書はそうした事情についてけっして隠そうとはしない。敵討ちの旅に出て、その敵を見つけたものの、相手がどうしても強そうに見えてついつい先延ばしにしてしまう心理も、いっけん強そうに見える敵のほうも、じつはいつ命を狙われるのかと内心ビクビクしながら生きているという心理も、本書は包み隠さず表現していく。それは、たしかにあまり格好の良いものではないのだが、誰もが武士らしく生きていけたわけではない。愛欲に溺れてしまうのも、老齢になって家庭のぬくもりを欲してしまうもの、人間であるからこその弱さであり、そういう意味では、本書はまぎれもない人間の生き方を描いたものだと言えるのだ。

 人が人の命を奪っていく非情な江戸の暗黒街――だか、その生と死のあいだには、まぎれもない人間の、それでも生きようとする意思が渦巻いている。テンポよく進んでいく切れ味鋭い短編集の、そこに住む人々の生き様をぜひとも堪能してもらいたい。


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2009年03月09日

空飛ぶ馬

「古き良き探偵小説」などという言葉があるのかどうかはともかくとして、不可解な殺人事件があり、名探偵が登場し、一見なにげない物証や情報から複雑なトリックを鮮やかに推理し、ズバリ犯人を言い当ててしまう、というパターンのミステリーを書く現代作家のひとりとして、島田荘司が挙げられる。名探偵御手洗潔のデビュー作でもある『占星術殺人事件』は、その斬新なトリックこそが最大の魅力であることは間違いのない事実であるが、「読者への挑戦状」という名のもとに、読者にも事件を推理して楽しんでもらおう、という姿勢も、そうしたミステリーの大きな特長のひとつだと言えよう。

 ところで、読者にも探偵役をつとめさせたい、と考えるのであれば、当然のことながら、事件を解く鍵はすべてその作品の中に提示しておかなければならない。そうでなければ、読者に対してフェアではないからだ。そういう意味では、最近のミステリーで多い叙述トリック系の作品――登場人物がふたつの名前を持っていたり、何者かの主観のもとに、事物を見間違えたりするようなトリックは、読者参加型のミステリーにあまりふさわしくないと言わなければならないだろう。

 私が本書『空飛ぶ馬』を読み終えて思ったのは、まさにその上述したような「古き良き探偵小説」のパターンを忠実に貫いた作品に感じられる、なつかしさとでも言うべき印象だった。といっても、そこには陰惨な殺人事件があるわけではない。たとえば、一度も見たことのないはずの男が割腹するという怖い夢、たとえば、喫茶店でカップに何杯も砂糖を入れる女の子たち、たとえば、鍵をかけ忘れた車から唯一盗まれた座席カバー ――そこにあるのは、たしかに奇妙な出来事ではあるかもしれないが、普通の人ならば、とりたてて深く考えることもなく、そのまま見逃してしまいそうな、ごくささいな謎ばかりのように見える。だがよく考えてみれば、「古き良き探偵小説」の名探偵たちも、そうした何気ない事実から、事件の謎を解く糸口を見出していったのではなかったか。

 そういう意味では、本書の中で探偵役となる噺家の春桜亭円紫もまた、まぎれもない探偵の資質をもった人間のひとりとして扱ってもいいだろう。ただし、彼が推理を展開することで見せてくれるのは、およそ現実では実現不可能な感の否めない、しかし誰もが予想だにしないであろう大掛かりなトリックではなく、人間の心という、私たちにとっては馴染みの深い、しかしことによるともっとも不可解で得体の知れないものなのである。

 いまさら言うまでもないことかもしれないが、私たちはそれぞれ自分の世界をもち、その中で生活している。そして他人と接する、というのは、それぞれが持つ世界が衝突することでもある。世界が衝突することで引き起こされる心の動き、感情の起伏は、必ずしも当人たちにとって愉快なものばかりではない。嫉妬心、底知れぬ悪意、自分勝手で他人のことを思いやろうとしない心――もちろん、それだけが人間のすべてだと言うつもりはないが、そうした歪んだ醜い心の動きは、人間が人間である以上、誰もが多少なりとも自覚せざるをえないものだと言えよう。

 本書の土台となっているのは、女子大生である「私」――何の変哲もない、ごくごく平凡で、人より少しだけ読書の好きな女の子の生活である。「こいくちしょうゆ」を「こんちくしょうゆ」と見間違えたりする、お茶目なところもある「私」という人物の個性を、日常生活の描写の中に溶け込ませることで、読者の身近なものとして巧みに演出させる物語の展開は、たとえば加納朋子の『ななつのこ』でも見られるものだ。そして、その日常世界の住人であるヒロインが、彼女にとっての非日常の住人である「探偵」、『ななつのこ』であれば小説家、そして本書では噺家――どちらも言葉という論理の産物を武器に、独自の世界を築き上げる職業に就いているという事実は、非常に興味深いものがある――と出会い、日常に隠された小さな謎を解明していく、という流れも共通しているのだが、本書の大きな特長は、円紫によって明らかにされる真実が、そのまま人間の本性を、その闇も光もすべてむきだしにしてしまう、という点を強調して描こうとしていることだろう。

 本書はタイトルを含む五つの短編で構成されているが、そのなかのひとつ「赤頭巾」で、円紫が童話の「赤ずきん」のストーリーに対して、「おおかみは赤ずきんと最初に森で出会ったとき、なぜそこで赤ずきんを食べてしまわなかったのか」という理屈を述べるシーンがある。

 しかし、一旦、気付いてしまったからには、もうそこに理屈をつけないと先には進めないのです。知で情を押さえることは出来るのに、その逆は出来ないのです。そこが知で動く人間の哀しさではありませんか。

 知らないことが罪である、というのがまぎれもない真実であるとして、それでもなお、知らなければよかったと思うことが、この世には数多くある。自分自身の、あるいは他人の認識を根底からくつがえしてしまうことさえありうる真実の重みを考えたとき、真実に対してあまりに鋭すぎる洞察力をもってしまった円紫――古き良き時代の人々の日常生活を、そして人情を語る噺家としての彼は、いったいどういう思いで落語を語り、そして真実を「私」に提示しつづけるのか。それは、本書を読んでぜひ確かめてもらいたいところであるが、ひとつだけ確かなのは、円紫は真実を知ることを恐れていない、ということであり、それは同時に、無知であるがゆえに、無自覚に人を傷つけてしまうことがあることをよく知っている、ということでもある。そして、そうした態度は、ときに人を傷つけ、ときに人を感動させる言葉を操る噺家だからこそふさわしいものであろう。

 けっして輝かしいだけではない真実を照らす「探偵」円紫との交流のなかで、女子大生である「私」がこれから先、どう成長していくのか、非常に楽しみである。
posted by パイナップル at 19:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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